西陣織とは

京都・西陣で生産される織物の総称です。国からは1976年に34種の織物の中の一つとして伝統的工芸品に指定されています。主な製品は着物地、金襴、裂地、緞帳で、綴(つづれ)、錦(にしき)・緞子(どんす)・朱珍(しゅちん)・紹巴(しょうは)・風通(ふうつう)・綟り織(もじりおり)・本しぼ織・天鵞絨(ビロード)・絣(かすり)・紬(つむぎ)の11種の絹織物が織られています。特に多色の糸を使う紋織物は絢爛豪華な糸使い紋様の精緻さを誇ります。伝統文化が始まった織物で、近畿の織物では唯一西陣織が指定されています。

由来

京都での織物の歴史は平城京から長岡京そして794年に平安京に遷都され、国策として始まっています。省(旧大蔵省)に所属する役所で錦・綾(あや)・羅・紬(つむぎ)などの染織を司る中司の織部司を御所(現在より広く千本丸太町が中心部)の東北に置き、織部司の下で織物を生産する工人・職人たちを織部町(上京区新町今出川上ル付近)に集在させ、生産させています。宮中では服装が装束など日本風に変わり絹織物が織られ、武家・公家の有職故実も体系化され、日本独自の文化が始まります。しかし、平安時代中期以降は律令体制も崩壊して多くの産業も衰退し、織部司もほとんど機能しなくなります。職人たちは織部町の隣、大舎人町(鎌倉時代、大舎人綾・大宮絹が京都の名産)に移り、宋の綾織技法を模倣した唐綾を貴族の有職用などに製作し、織物業も始めています。

鎌倉・室町時代と政治は武家に移り、京都は商人や手工業者で賑わう商工都市に大きく変貌し、大舎人座(おおとねりざ)や白雲座など商工・同業者組織を形成しています。当時の商店は見世物棚と呼ばれていたそうです。

西暦1467年~77年の応仁の乱で京都は大半を焼失し、堺などに逃れていた織職人たちは京都に戻り、元の織部町付近、東軍本陣跡(上京区新町今出川上ル付近)の白雲村に練貫職人集団の練貫座(ねりぬきざ)、そして西軍本陣跡(大宮今出川辺り)に綾織物職人集団の大舎人座が組織され、再開しましたが、ほどなく営業権の争いが起り1513年足利幕府により大舎人座が将軍家直属の織物所に指定され,絹織物の生産を独占します。1548年には大舎人座の職人のうち31人が足利家の官になり、西の陣の跡が転じ「西陣」と呼ばれ始めて機業は発展し、そこでの織物が京都の織物名産「西陣織」と呼ばれます。ただ、当時も現在も西陣という地や行政区はなく、西軍本陣山名宋全の屋敷跡近辺が西陣とされています。

金襴などは安土桃山時代に中国・明の織工がの織や明の技術を堺に伝来し、堺を経て京都に伝来します。西陣では積極的に先に染めた糸を使って色柄や模様を織り出す紋織(もんおり)などの技術を導入し、空引機(そらひきばた)・高機(たかはた)を輸入して高級精妙な西陣織の基礎を築いています。

江戸時代に入り、幕府に保護された西陣は大いに繁栄し、中心の大宮通今出川は千両ヶ辻と呼ばれていますが、丹後・長浜・桐生・足利など京都以外でも、絹織物が盛んになっていきます。京都・室町冷泉町では「誉田屋」本家・初代誉田屋庄兵衛(矢代庄兵衛)が享保5年(1720年)に呉服商を創業しますが、1730年に西陣焼けと呼ばれる大火が起き、西陣の大部分を焼失しています。火事の後には西陣の技術を持つ織工が地方へ流出します。さらに天明8年(1788年)の大火や,天保の改革で株仲間の解散や絹織物禁止令で西陣は大きな打撃を受けています。

その後、宝暦年間には誉勘商店の初代誉田屋勘兵衛(松井勘兵衛)は「誉田屋」の屋号で暖簾わけを許され創業、分家・誉田屋仁兵衛(矢代仁兵衛)も同じ冷泉町で矢代仁を創業します。同じ頃に京都の先染め織物「西陣織」の二大技法、紋織りと綴れ織りは江戸・元禄年間の頃確立したといわれ、京の着倒れという言葉も登場しています。

江戸末期・幕末の頃には蛤御門の変で京都の大部分が焼失します。四年後の「西陣織物中買仲ヶ間」で作成されたものによると西陣の「肝煎」誉田屋庄兵衛をはじめ109家が記載されていますが、この頃から西陣には老舗が数少なくなっていたようです。

明治になり西陣は需要層を失い、原絹の生糸の価格高騰などで以前にもまして危機を迎えます。京都は保護育成を計り、フランス式やオーストリア式のジャカード(紋紙を使う紋織機)などを輸入し、洋式技術を定着させ、明治20年代には西陣は最新にして最大の絹織物産地と復活して行きます。

現代は戦前・戦後に金襴などは統制品となりますが、戦後は機械化がさらに進み,新しい技術も次々に導入され、技術の高度化とともに作業工程は細かく分業化されていますが、日本の美と心の結晶というべき伝統文化は「日本らしさ」であり、改めて「日本の美と心の価値」を再認識し、さらに未来へと守り伝え、創造して行きます。