誉勘商店の歴史 | 金襴正絹織物卸商 京都室町 誉勘商店

誉田屋一統

京都は平安京の遷都以来、古くは鴨の流れによる水害や祇園祭の起源になった災害、また、政治・産業構造の変革などがありました。そして応仁の乱、法華の変、蛤御門(はまぐりごもん)の変といった戦乱で幾度も街区を焼失と、さまざまな時代を越えて来たにも係わらず、歴史的遺産、文化的遺産や京町家、伝統工芸品、老舗・のれんが数多く残る日本のみならず、世界でも稀有な街区です。

なかでも、京都・室町には西陣織を扱う商家、著名な商家が多く、商業の発展によって大いに繁栄し、成長と衰退を繰り返していますが、文化的遺産や京町家、伝統工芸品、そして、京都でも一番多く老舗・のれんが残る界隈です。
近世・江戸時代中期、京都・室町冷泉町では「誉田屋」本家・初代誉田屋庄兵衛(矢代庄兵衛)が享保5年(西暦1720年)呉服商を創業。「誉勘商店」の初代誉田屋勘兵衛(松井勘兵衛)も「誉田屋」の屋号で創業。分家・誉田屋仁兵衛(矢代仁兵衛)も同じ冷泉町で創業、創業期より宮中や将軍家などに職や品を分け協業をしていたようです。そして、冷泉町には日本の近世を代表する三井家・三井越後屋もありました。

譽勘商店も代々「誉田屋」というのれんを価値観とし、京都・冷泉町で260年以上、十三代にわたり本物のみを「職商い」させていただいております。近世・江戸時代の日本の歴史学、経営学、そして特に近世都市史研究上著名な町と言う事で多くの研究者の方々がお見えになります。近世後期の史料の大半は蛤御門の変で焼失をしたそうで、焼失を免れた奥の蔵の史料は京都市歴史資料館にも治められ、また杉森哲也著「商家同族団と町-京都冷泉町・誉田屋一統を事例として-」(『年報都市史研究』5号)特集「商人と町」に近世後期から近代の展開がまとめられていますので、下記に一部抜粋させていただきます。

京都冷泉町・誉田屋一統を事例として-
「誉田屋」という京都ではやや変わった屋号は、初代誉田屋庄兵衛の出生地、河内国古市郡の誉田の庄(現在の大阪府羽曳野市誉田)に由来し、近世中期の京都・冷泉町の誉田屋庄兵衛家を本家とする一統が用いていた屋号です。
同時期、近世中後期に誉田屋仁兵衛家も店舗をかまえており、同じ冷泉町を本拠地として展開した誉田屋庄兵衛家とそれを本家とする誉田屋一統は形成され、近世後期には京都を代表する上層商人と有力な一統に成長しました。また、誉田屋一統は冷泉町および周辺の町々にも展開していました。
近世後期幕末期、蛤御門(はまぐりごもん)の変の四年後、慶応四年(1868年)5月に時の商法司布達の「商法大意」をうけ、「西陣織物中買仲ヶ間」で作成されたものによると「肝煎」誉田屋庄兵衛をはじめ109名が記載されています。肝煎(きもいり)とは江戸幕府の職制で、支配役または世話役、代表者を指し、京都の西陣織物中買での支配役または世話役です。

10年20年でのれんやものづくりはできず、伝統工芸品を創ることは叶いませんが、京都にある変革を恐れない土壌と新しいものを進んで取り入れる気質、そして連綿と続く京都の価値観を守る意識を人々が持ち続けていることが企業存続の背景にあると言えます。